当サイトをご覧いただき、ありがとうございます。
私は30代、ワンオペ子育て中の主婦です。
おまけにWEB未経験ですが・・・
1年後に在宅で月収20万円稼げるようになること
を目標に、今WEBマーケティングを学んでいます。
「え?そんなことできるの?」
「データ入力じゃないの?」
「なんか怪しい…」
そう思われた方も多いと思います(笑)
パソコンスキル0の私が、
なぜWEBマーケティングを学ぼうと思ったのか?
そのきっかけと経緯について、私の生い立ちを含めてお話しします。
基本情報
名前:愛
性別:女
生年月日:1993年3月4日
出身:東京
家族:12歳年上の夫・小学生の娘と3人暮らし
趣味:読書、宅トレ、ミュージカル鑑賞
好きな食べ物:アボカド、キムチ
幼少期~小学生
母の体罰に耐える日々
私は東京都内で、双子の次女として誕生。
最寄り駅が4つもある、とても便利な立地にある戸建てで育ちました。
1歳から保育園に預けられ、両親はずっと共働きでした。
5才の時に、母の不倫で両親が離婚。
千葉県にある、父の実家に引き取られました。
しかしわずか9か月後に復縁し、また都内の家に戻ってきたのです。
久しぶりに会った母はとても優しく、
「このおうちに戻ってこられて嬉しい~!」
と幸せな気持ちでいっぱいだったのを、今でも覚えています。
しかし小学校に入学してから、
母がとても厳しくなっていきました。
夕方遅くまで学童で過ごし、姉と2人で誰もいない真っ暗な家に帰る毎日。
そしてピアノの練習をした後に、家中を綺麗にお掃除。
洗濯ものを畳み、お風呂の掃除をして、お味噌汁を作る。
週に一度、生協から届く大量の食材を片付けるのも、私たちの役目でした。
そんな忙しい毎日でしたが、いつも洗濯物を畳みながら見ていた『天才てれびくん』だけが、唯一の楽しみでした(笑)
母との約束を私たちが少しでもサボろうものなら、母の往復ビンタが待っていました。
体罰が怖くて、私たちはだんだん嘘をつくようになりました。
でも子供の嘘なんてすぐにバレるものなので、母はヒステリックに叫びながら、鼻血が出るほどの往復ビンタ。
でも鼻血が出た時、
(これでもう叩かれなくて済む…)
とホッとしたのを覚えています。
ピアノの練習をサボったことが母にバレて、
髪の毛を男の子のようなベリーショート
に切られてしまったこともありました。
私は長い髪の毛をとても気に入っていたので、悲しくて泣きながら、
(明日になったら髪の毛が伸びていますように・・・)
と心の中で何度も唱えながら眠りについたのを覚えています。
もちろん、次の日も髪の毛は短いままでしたが^^;
母が泣きながら、
「感情的になって髪を切ってしまってごめんなさい」
と私たちに謝ってきたのです。
そんな母を見て、
「お母さんは毎日お仕事で疲れているんだな…」
「本当は怒りたくないけど、疲れすぎているからたくさん叩いたりしちゃうんだな…」
と、なんだか母が可哀想に思えたのです。
7歳で自分自身に絶望する
もともと、何でも器用にこなす賢い姉に比べ、私は不器用でミスばかり。
学校の勉強も理解が遅い・道を全然覚えられない・忘れ物も多い・食器をよく落とす
などなど…
そのたびに母からの体罰を受ける日々でしたが、ある日母も限界を迎えたのでしょうか…
今までにないほどヒステリックに泣き叫びながら、
私の髪の毛を鷲掴みにして頭を揺さぶり、
「何であんたは他の人と同じようにできないの!!」
と繰り返し怒鳴り続けたのです。
最終的に、私の頭を床に打ち付けて終了。
幸い絨毯だったので、ケガや傷はありませんでした。
私は痛みや悲しみ以上に、
「お母さん、こんな私でごめんなさい」
「みんなと同じことができなくて、ごめんなさい」
と、自分自身に深く絶望しました。
後に知ったことですが、
母もまた、祖父の暴力に怯えながら子供時代を過ごしていたそうです。
さらに母の実家はボロボロで、冷蔵庫もなく、お風呂にも毎日入れないほど貧乏だったそうです。
そんな「家コンプレックス」を私たち子供に味わって欲しくない一心で、無理をして都心に戸建てを買ったのだと思います。
ローンに追われて働き続ける毎日の中で、
心も体も余裕をなくし、子供に体罰を繰り返す日々。
母もまた、苦しんでいたのだと思います。
怖い思いをしてきたはずなのに。
体罰が生み出すメリットなど何もないことを、誰よりも理解しているはずなのに。
暴力・虐待の連鎖を止めることは、想像以上に難しいのだということを、今でも強く感じています。
その後も状況は変わらず、体罰に耐える日々が続きました。
いつも忙しそうなお母さん。
鬼みたいな顔で叩かないで。
生まれ変わったらワンちゃんになって、お母さんに甘えたい。
そんなことを考えていた、幼少期期でした。
父の存在が心の支え
ここでやっと、父の登場です(笑)
父はとーーっても優しく、穏やかで、いつも私たちの”存在そのもの”を認め、受け入れてくれました。
某ファーストフード会社のマーケティング部長だったこともあり、いつも忙しそうでした。
たまに夜会えた日は本当に嬉しくて、いつも父の帰りを待ちわびていました。
まるで、暗闇の中の一筋の光のような存在で、私たちにとって心の支えでした。
休日は、一日中公園でかけずり回って遊んだり、電車に乗ってお出かけもしたり…
雨の日は、ピザや餃子を皮から一緒に作ったりもしました♪
平日はあまり会えない分、休日に父と遊ぶのが待ち遠しい…
そんな小学校時代でした。
父と過ごした楽しくて幸せな思い出は、今でも私にとって心の支えであり、生きる力になっています。
母と姉のバトル勃発
高学年になると、母の体罰は減った代わりに、姉の爆発的な反抗期が始まりました。
朝から、母と姉の怒鳴り合いが絶えない日々…
姉は学校でも問題行動が多くなり、呼び出しも多々あり…
家庭内の険悪なムードが少しでも和らぐように、私はひたすら母のご機嫌を取り、家事の手伝いも積極的に取り組みました。
どうしたらみんなが穏やかな気持ちでいられるのか・・・
ない頭をひねりながら過ごしていたので、私は反抗する暇もありませんでした。
この頃から、姉への不満がふつふつと募っていきます。
中学生時代
超スパルタな部活動
母と姉のバトルは終わることがないまま、中学校に入学。
私は、当時放送されていたドラマ「エースをねらえ!」の影響を受け、ソフトテニス部に入部しました。
軽い気持ちで入部したのですが、なんと地区大会では毎年優勝して都大会に進出し、さらに関東大会出場を目指すような、強豪校だったのです。
体力もない上に運動神経も悪かった私は、ハードな筋トレについていけない日々でした。
もちろんテニスのセンスもなく…
8番手中、8番手のスタートでした(笑)
ですが3年生になる頃には、
なんと2番手にまで成り上がったのです!!!
「努力は絶対に裏切らないのだ!」と言いたいところですが・・・
実は、強豪校なだけあって、あまりにもハードな練習内容に離脱していく部員が多く、
16人いた同級生女子は、8人にまで減ってしまったのです(汗)
なので成り上がったというより、ただの繰り上がり(笑)
ですが、その3年間の経験で、どんなに辛くても下手くそだったとしても、
歩みを止めずに続けることの大切さを学びました。
レギュラーメンバーとして挑んだ引退試合の団体戦では、無事に優勝!
都大会も勝ち進んでいきましたが、関東大会出場の一歩手前で敗れてしまいました…
それでも、最後まで走り抜けることができた達成感でいっぱいで、仲間と共にいつまでも泣きました。
努力をし続けた者にしか見ることのできない景色が、そこにはあるのだということを、
初めて知った瞬間でした。
そして姉の反抗期もだいぶ落ち着き、やっといいい雰囲気で過ごせそう!と感じた矢先・・・
母が家を出て行ってしまったのです。
突然、母が家出!
夫婦間の不仲に加え、姉の爆発的な反抗に耐えられなくなった母は、なんと都心から離れた場所にある3LDKのマンションを購入していたのです。
「ちょっと遠いけど、いつでも来ていいんだよ」
「あなた達を捨てたわけじゃないからね」
と言い残し、家を出て行ってしまいました。
あまりにも突然の出来事に、呆然とする私たち・・・
「これからは、母との楽しい時間をたくさん過ごしたい」
と思っていた矢先の出来事だったので、私はとてもショックでした。
母のいない家に帰ってきては、涙が溢れて止まらない日々が続きました。
「母が出て行ってしまったのは、姉のせい」
そんな気持ちが拭えず、姉との関係性も悪くなる一方でした。
寂しさを埋めるかのように、私は受験勉強に打ち込みました。
今まで部活に明け暮れる毎日で、勉強は後回しだった私の成績は「下の下」。
それからは毎日職員室に行き、先生に勉強を教えてもらう日々。
頭のいい友達にもたくさん勉強を教えてもらい、メキメキと成績UP↗
通知表は「オール5」・・・
とまではいきませんでしたが、
4と5しかない通知表を手にした時は、達成感でいっぱいでした。
そして指定校推薦で、第一希望の都立高校に無事合格。
母にとても褒めてもらえたことで、
「勉強を頑張れば母に認めてもらえるんだ」
と私は強く感じました。
そこから私の、「強い承認欲求」を満たすための努力が始まります。
高校生活
バイトと勉強に明け暮れる
高校に入学してすぐに、私はアルバイトを始めました。
これからお金が必要になった時に困ることのないように、少しでも貯めておきたかったのです。
15歳でも雇ってもらえそうなバイト先を探すために、いくつも面接を受け、唯一採用してもらえた近所の焼肉屋さんで働き始めました。
勉強への意欲も高かったため、放課後は「勉強教えてくださーい!」と職員室に入り浸る日々(笑)
そして焼肉屋さんで22時まで働き、家に帰ってまた勉強をする、という生活を送っていました。
テストの順位はクラス1位をキープし、学年でもトップ5以内に入り続けていました。
母や先生にもたくさん褒めてもらえましたが、それでも満足することはなく、がむしゃらに勉強していました。
過度な承認欲求を満たすためだけに勉強をしても、夢や目標を見出すことはできませんでした。
16歳で一人暮らしを決行
その頃、姉との関係性に悩み、だんだんと距離を置きたい気持ちが芽生えてきました。
「今なら母と楽しく暮らせるかもしれない…」
という期待を胸に、母の家に引っ越すことを決めたのでした。
あたたかく迎え入れてくれることを期待していましたが・・・
タイミング悪く、母側の祖母が倒れ、母は家と病院を往復する毎日。
そして仕事との両立で、疲れ切っていたのです。
母はまた、お金と時間に追われる生活の中で、心の余裕をなくしていました。
私がいかに邪魔な存在か、という言葉を繰り返し浴びる日々。
私は耐えられなくなり、心が壊れる前に、母のもとを離れる決意をします。
「自分が帰りたいと思える居場所は、自分の手で作るしかない」
そんな思いで、アルバイトでコツコツ貯めた80万円を握りしめ(ているような気持ちで)、アパマンショップへ向かったのです。
16歳の高校生が、一人でアパートを借りるのは本当に大変でしたが・・・
スタッフの方に預金通帳を見せて、必死に説得。
なんとか、家賃4万円のアパートを契約することができました。
「お父さんの家に戻るね…」
と言い残して、母のもとを離れました。
一人で生きていくことを決めた、大きな挑戦でした。
それからというもの、生活費を稼ぐために、
しゃぶしゃぶ屋さんとステーキ屋さんを掛け持ちして、アルバイト漬けの毎日。
ノートに1円単位で家計簿をつけながら、切り詰めた生活を送っていました。
「何も贅沢はしていないのに、生きていくだけでこんなにもお金がかかるんだ…」
と、身に染みて感じました。
それと同時に、子供を生かすために必死だった母を、一人の人間として見つめ直すことができたのです。
「生かしてもらえたことに感謝をし、母から受けた全ての事を許そう」
そう思えたのです。
もっと頑張って働いてお金を稼ぎたい
お金に追われてばかりだった母を、いつか少しでも助けてあげたい
そんなことを考えるようになりました。
もちろん進学するつもりはなかったので、高校を卒業してすぐに、エステサロンに就職しました。
18歳~社会人生活
消えない「お金への不安」
社会人になってからは、「社長や先輩方に認められたい」という過度な承認欲求から、会社にとって必要な人材になることばかりを考えていました。
「お客様のため」ではなく、「自分を認めてもらうため」に働く日々でした。
会社にとって必要な人材になるために、「お店の売り上げに貢献したい!」という気持ちが強かったため、高額のコースを契約してもらうことだけを考える日々。
あっという間に売り上げトップになり、小さい店舗ですが、店長を任されるようになりました。
役職手当てや、売り上げに対するインセンティブはあったものの、いつも漠然とした「お金への不安」がありました。
そして何か副業を探そうとしていた時、友人からアムウェイの話が来たのです。
アムウェイで借金
今まで労働で稼ぐしかないと思い込んでいた私は、アムウェイの「権利収入」というワードに強く惹かれました。
「私が求めていたものはこれだ!」と思い、チャレンジすることを決めました。
成功している人の近くに身を置ける環境が大事だと感じたため、都心に引っ越しまでして、
20歳になると同時にアムウェイ活動をスタートさせたのでした。
朝10時~20時はエステサロンで働き、そこから明け方まで、勧誘活動のために走り回る日々。
ほとんど寝ずに出勤していたので、接客中に白目をむいたことも何度もあります(笑)
そんな生活を1年ほど続けましたが、思うように結果は出ず、むしろ活動費がかかりすぎて毎月赤字。
権利収入なんてほど遠く、むしろめちゃくちゃ労働(笑)
貯金どころか、借金まで背負ってしまったのです。
ある日お金を借りようとした時、ふと
「20歳で借金がある私の人生って、何なんだろう…」と、心が折れてしまいました。
「権利収入なんて諦めて、地道に労働するしかない」と思い、アムウェイをきっぱりやめました。
それからは、エステサロンでの勤務の後に、24時間居酒屋「磯〇水産」で働き始めました。
朝8時まで働いて、近くの漫画喫茶「マンボウ」でシャワーを浴び、エステサロンのベッドで仮眠をとってから働く。
という過酷なダブルワークを続け、なんとか借金を返済しました。
22歳~28歳
結婚・出産
昔から結婚願望はあまりなかったのですが、かねてより交際していた12歳年上の彼が、強い結婚願望があり。
彼の両親はとても仲良しなこと、彼自身の自己肯定感が高いこと、同世代の男性より収入が安定していたことも、結婚を決めることができた大きな要因の一つです。
そしてありがたいことに、娘を授かることもできました。
母から受け継いだ体罰・虐待の連鎖を断ち切るため、育児本を読み漁る毎日。
「お金と時間に追われて心に余裕が持てなくなり、一番大切なものさえ見失う」
そんな状況だけは絶対に避けたいという強い思いが、私にはありました。
義母がずっと専業主婦だったことから、夫も「娘をカギっ子にさせたくない」
という思いがあったため、産後は仕事復帰をせずに、家庭に入ることに決めました。
さらに嬉しいことに、父が5年前に設立した会社の後継者として、夫が入社してくれることになったのです。
予防医療分野の医療機器を海外から仕入れ、クリニックに卸す事業です。
夫は、自営業で車の整備士として働いてきた人なので、「果たして務まるのだろうか?!」と不安もありましたが…
ひとまず夫のチャレンジと潔い決断に、感謝の気持ちでいっぱいでした。
子供の発達の遅れ
娘が1歳半を過ぎた頃から、言葉の遅れが気になり始めました。
様子を見ていたのですが、2才を過ぎても喃語すらも発することがなかったので、発達に詳しい小児科医に相談しました。
そこで「言語発達遅滞」と診断されたのです。
様々な発達検査も受け、言語だけではなく、運動機能の発達も遅れていることが分かりました。
そこから、療育に通う日々が始まりました。
平日は療育のプレスクールに通い、社会性・言語・身体能力を高めるための集団レッスンを受けました。
土曜日は音楽療法、日曜日は作業療法士による個別レッスンを毎週受けました。
土日に通っていた療育機関は保険適用ではなかったため、たった1回のレッスンで6000円が飛んでいきました。
あまりに高額なために躊躇してしまいましたが、多くのエビデンスがあることを知り、通うことを決めました。
突然の高額な療育費用を賄うために、夫は副業もして働き詰めの生活でした。
いつどんな時に急な出費があっても対応できるように、私自身もスキルを身につける必要性があることを、強く感じました。
突然、夫が会社をやめる!
療育により、娘の言語・身体能力は定型発達に追いつき、「なんとか幼稚園生活にもついて行けそう!」と安心していた矢先・・・
突然、夫が会社を辞めてしまったのです。
父の会社で頑張ってくれていたのですが、やはり畑違いの医療分野についていくことが、相当厳しかったようです。
他の社員さんとの人間関係に悩んでいたこともあり、元の車業界に戻ることを決めたそうです。
「とは言っても、私には後継者なんて務まらないし…」
「そもそも会社が遠くて、子育てしながら出勤するのは無理…」と悩む日々。
けれど、「私にはできない…」と思えば思うほど、父がたくさんの愛情を注いでくれた、あの幼少期の思い出が、何度も蘇ってきました。
「自分自身に価値を見出すことができなかった私を、唯一認め続けてくれた父に、恩返しがしたい」
そう思ったのです。
何よりも大切な”娘との時間”を優先しながら、まずは在宅で手伝えることから始めてみよう!と決めました。
WEBマーケティングとの出会い
パソコンも全く使えない私でしたが、なんとか「コピーペースト」くらいはできるようになった頃…(笑)
たまたまYouTubeで、オーダーメイドスーツ会社の社長「勝友美さん」のショート動画が目に入りました。
「美人だし、生き方もかっこいい~!」と思い、
気づけばいつも「社長!」「うっす!」の切り口で始まるショート動画を見ていました☆
そして、勝社長が運営するオンラインサロンがあることを知りました。
「マインド」「WEBマーケティング」「金融リテラシー」の3つの柱で、様々な情報を学ぶことができるサロンです。
「本物の情報を浴びて成長できれば、何か父の役に立てるかもしれない」
そんな思いでオンラインサロンに入会しました☆
あ、このサロンに勧誘するためのブログではないので、ご安心くださいね!(笑)
さらに、WEBマーケティング担当の先生が、1年かけて弟子を育成する講座を開講する、という情報が目に入りました。
「パソコンもろくに使いこなせない私が、WEBを使ったマーケティングなんてできるのかな?」
「そもそもWEBマーケティングって、なんか具体的なイメージがつかない…」
という思いがありましたが、
「WEBマーケティングを本気で勉強したら、父の力になれるかもしれない」
と強く感じました。
さらに、先生のある言葉が印象に残ります。
「僕のミッションは、マーケティングの力で、残すべき企業を残すこと」
「最高の脇役になり、相手を勝たせる」
この言葉に、私の心は動かされました。
今まで、「自分を認めてもらいたい」という、承認欲求を満たすための努力しかしてこなかった私ですが…
「人の役に立ち、人に感謝されることで、自分の人生が輝き始める」
そんな生き方をしたい、と強く思ったのです。
そして、今
30歳という節目の年に、人生で一番高いお買い物をして(笑)、このWEBマーケティングスクールで勉強中です☆
冒頭でもお話ししたように、WEBマーケティングを本気で学び、
「1年後に在宅で月収20万円稼げるようになること」を目標に頑張っています。
お金と時間に追われて、本当に大切なものを見失うことのないように。
そして、長い人生で見たら「瞬間的」である子供との時間を大切にしたい。
あの体罰に耐えていた頃と同じ年齢の、まだまだ甘えん坊な娘を抱きしめながら、強くそう思うのです。
このブログでは、子供との時間を大切にしながら、在宅で収入を得ることができる未来を実現できるように、スクールで学んだ情報をお届けしていきます☆
どんなことがあっても、歩みを止めずに進み続けていきますので、お付き合い頂けると嬉しいです♪
長くなってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。